青春の禁治産者
Aug 21, 2008
2:40am
Aug 17, 2008
3:54pm
Aug 17, 2008
3:53pm
三外人
わたしたちはすべて外人だが、外人の発現にはいくつかの種類がある。
象徴的外人とは、物語を知ることだ。象徴的外人は、何ら外人たることなく、可能的なものを知ることで外人を消化する。
想像的外人とは、文字通りの「外国人」になってしまうこと、つまりわたしたちが現実性と呼んでいる物語の中で「外人」を演じることだ。想像的外人は、しばしば外国語を学び、外国に住む。
現実的外人は、物語という可能性を一切排除してしまった外人だ。「外国人」になるのでもなく、可能的なものを持たない「唯一の現実」における外人を探す。その外人は、まったく了解し難い形を持つ。なぜそれが外人であるのかについて、物語的な連続性、つまり交換可能な意味を持たない。物語を失ってしまった時、わたしたちは致命的な外人になる。
しかし、そこに物語性がないとはいえ、何かがそれを「真の現実」として示している。そこには傾向と固着がある。なぜそれが「現実」に値するのか、語ることができない。
例えば、身体の切断。それがなぜ「外人」なのか、その答えのない問いを問い続けている。なぜ、これでなければならなかったのか。
多分、「それはそういう物語なのだ」と答えるしかない。物語とはそういうものだ。だから、物語には問いを仲裁する力がある。
そして今、わたしがそうした答えのない問いを問えるようになったということ、つまりまだ十分に物語を知らないが、少なくとも問いを立てその周りを回ることができるようになったということは、現実的外人から、「正常な病人」に帰ってくることができた、ということだろう。
Aug 17, 2008
3:53pm
声がするとき
声がするとき、それはもちろんわたしの声なのだが、わたしの声に聞こえないから問題なのだ。
だから、声がどうしても止まないのなら、いっそわたしの声を問題にしてしまう方法がある。
「声がする」と言っていた人は、次のように言うようになる。「声がおかしい! わたしの声がおかしい!」。
これは、少しだけ「正常」になったということなのだろうか。
ここで、正常に見えればそれは正常ということなのなのか、真の正常と見せかけの正常は異なるのか、という方に進んでしまうと、またトラップにはまり込む。だから、そっちはダメだ。
そうではなく、端的に「まだ問題は残っている」と考える。
なぜなら、少なくともわたしの声はおかしいのだから。
わたしの声を正しくするのは、また別の問題だ。
もちろん、それを正ししてしまうのは、声のおかしさが守っていたものを危険に晒す賭けではある。
Jul 30, 2008
3:05am
Jul 30, 2008
3:04am
Jul 24, 2008
3:43pm
Jul 21, 2008
7:09am
Jul 17, 2008
11:20pm
Jul 13, 2008
6:18am
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